パレスチナの話②
荒野を抜けて、バスは進み。
僕らはセルフィートへ。
ここはラマーラと違って小さい町でした。Mちゃんの導きで僕らは小学校へ。
小さいけれど校庭もあって、子ども達は元気にサッカーをしていて、「なんや、パレスチナって、一言で恐ろしいところやと思ってたけど、そうじゃないところも沢山あるんやな 」と僕は日本で持っていた『パレスチナ』の偏ったイメージが変わっていくのを感じていました。
そのあと、僕らは教室へ通され自由に子ども達と遊びました。腕相撲をしたり、一緒に踊ったり、楽しい時間を過ごして
旅人チーム VS パレスチナの青年達 のサッカーの試合をしたりもしました。
一緒に遊んだあとは、昼ごはんをご馳走してもらいました。美味しかったピザの味や、初めて食べたサボテンの実のみずみずしい口当たりは、今でも忘れません。
ウサギ小屋にいたウサギは
「食用だよ!」と先生達は元気に教えてくれていたので、これは僕が人生で初めて食べた「ウサギピザ」なのかもしれません。美味しかったよ!
昼食を終えて、濃いめのコーヒーを飲みながら木陰で先生達と話をしました。
明るく過ごしている子どもたちの中にも、突然打たれて殺されてしまう子がいること。
色々な話をしました。
先生達が言っていた言葉でいまでも心に残っている言葉があります。
「日本人には僕たちの気持ちがわかるだろう?日本も同じようにアメリカに占領されていたんだから」
この言葉は当たり前のことなんだけど、戦後平和な時代に産まれ育った僕は側頭部をガツンと殴られた気分でした。
僕はこの時まで、「戦争に負けて日本がアメリカに占領されていた」という事実をそれが本当にどういうことなのか、考えたことがなかったのです。ぼくの中ではそれは単なる教科書の文字で、文章で、または単なる映像でした。
占領される、というのはこういうことなんだな、と思いながら僕は
「そうだね。」と、力なく答えました。
旅人のひとりが「あなたの夢はなんですか?」と聞きました。
1人の先生がそれに答えました。
「僕の夢は、あの壁の向こうにある、僕たちの聖地に祈りにいくこと。本当にそれだけなんだよ」
2015年になった今。
いつかこの壁が崩される日が来るでしょうか。自由に動き回ることのできる僕らはいったいどんな風に生きるべきでしょうか。
Mちゃんはその後帰国後もパレスチナに関わる活動を続け、いまも国際協力分野の最前線で戦いつづけています。