パレスチナの話①
僕が2007年にパレスチナに行った時のことを書こうと思います。
ヨルダン、イスラエル国境はかなり混雑していて当時陸路で入国するのに6時間くらいかかった記憶があります。
なんとかイスラエルに入国した僕らは宿を見つけ、そこで1人の日本人の女の子と出会いました。
その女の子は僕より少し年上でイスラエルの大学に留学し、ヘブライ語とアラビア語を操り、イスラエルのパレスチナの間に立って何かできないか、と奮闘していました。Mちゃん(仮にこう呼びます)は僕らにイスラエルとパレスチナの間に起こった、起こっている話を一生懸命してくれました。
数々の紛争の話、自分が体験した話を語り夜もふけたころ、彼女はいいました。
「明日、パレスチナのセルフィートという地域にいくから、一緒に行きませんか?」
イスラエルとパレスチナの間には7mの高さの壁が立っています。こんなに物理的に「隔離」されているのをみてぼくは衝撃を受けました。パレスチナの人々はこれが出来てからの10年(当時でそれくらいだったと思う。)そとに出たことがない人が殆どなのです。
壁の内側、パレスチナ側では壁にペイントされてるところが沢山あります。
人々の自由を訴える声(だけではないかもしれません。このBlogでは僕が見たものを僕が編集している、という事実を頭に置いて下さい。)を絵に載せて訴えていました。
「ホアッ」
と中華風拳法の声を出すと、笑ってくれたのを覚えています。彼らも普通の10代の笑顔をしていました。
バスは進み、僕らはまずパレスチナの首都ラマーラにたどり着きました。
この町は、紛争の傷跡も生々しく、壁が戦車の大砲で撃ち抜かれていたり、おびただしい銃弾の跡が壁に残っていたり
僕が生きていた日常とは全く違っていました。
でも、思っていたよりも活気があって、よくテレビに映る難民キャンプのような雰囲気ではなく、ちゃんとした「街」がそこにありました。
ぼくは、なんとなく安心したのを覚えています。
ラマーラを後にして、バスは荒野を進み、僕らはセルフィートへと進んで行ったのでした。
オリーブ畑が荒野にまばらに広がっていました。
②につづく