踊る髭の冒険

30歳を目前に仕事をやめて旅に出た髭の人が世界中放浪した果てに結局海外大学院留学せずに帰国→家族でベトナム ハノイ移住→その後ドイツで大学院卒業→現在はカンボジアでのらくら。

メータオ・クリニック⑤

4月30日 18:30

僕の泊まってるパヌーハウスという宿はこのMae sot でボランティアをしている人が殆ど泊まっている宿のようで、よく待ち合わせ場所につかわれているみたいだった。
先日阿部先生と一緒に事務所を訪問させてもらったSVA(シャンティ国際ボランティア会)の菊池さんとは宿の前で待ち合わせていた。

日本料理会。日本料理食べれるの本当に嬉しい。「おでんありますよ!」の一言で涎が溢れそうだ。

菊池さんは時間通り迎えにきてくれて、僕らは会場に向かった。

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「ここはホームステイする人達が住んでる家ですねー」
一軒家をシェアして、皆で住んでいるようだった。キッチンにはすでに日本風カレーや親子丼がっっっ!!

お友達の台湾人の方々が作っていてくれて、続々と人が集まってくる。

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カレー!親子丼!おでん!揚げ豆腐!赤飯!卵焼き!極めつけにお汁粉まで、、、((((;゚Д゚)))))))ぅあああー!感動で震えるっっ!!

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乾杯っ!

ビールの美味しかったことといったらもう…。

色々なバックグラウンドでMae sotに来ている人達。

タイの大学で公衆衛生を学んでからメータオ・クリニックで勤務している日本人の看護師さん。台湾の国際NGOで働いている人。日本で勉強していた事がある日本語ペラペラのミャンマーの方。SVAの職員の方、インターンで働いているタイ人。ボランティアで来ている小児科医。

それぞれのバックグラウンドや話を聞くのはすごく楽しい時間だった。

一口に「ミャンマーの難民問題」といっても関わり方は様々で。

話題はだんだんと「NGO運営」の方へ進み、それぞれの団体がどれほど資金を獲得するのが大変か、沢山話を聞くことができた。

「来年度の資金を、どこかから調達しないとーー!事業が続けられないっ。どうにかしなきゃー」という1人の悩みに、すぐさま皆から「あそこに問い合わせてみたらどう?」と返答がでる。

NGOは基本的に寄付金で成り立っているので、政府や民間企業にプレゼンをして、ドネーションを獲得しないと事業が続けられない。これがもう本当に大変みたいで、NGOないでも予算の調達をしなければならないポジションにいる人は相当ストレスフルみたいだ。

「スタッフや現地で働いてる人に、お金渡せませんとは、言えないじゃない」

そりゃそうだよなあ(´Д` )大変な仕事だ。

NGOって、そう考えるとすごく特殊な組織のあり方だと思う。
企業だったら、働いて利益を出して、またそこから新しい事業を展開していくけど、NGOは、寄付にしろ、助成金にしろ、基本的に「人から頂いたお金で行動する」わけで。
SVAのインテーンのアイバくんの言葉を借りるなら
「説明責任がもの凄くある」んだよね。

もちろんNGOも色々で、物を売って、利益を出して、その資金を次につなげて行くっていうやり方をしてる人達もいる。

そういうやり方をやってる人達は日本だと「コペルニク」というNPOが有名だ。


色んな問題を解決するプロダクトを途上国の人達に届けることをミッションにしている。昔本読んだんだけど、おもしろいので興味のある人は是非覗いて見てほしい。

NGO, NPOってぶっちゃけなんなの?!って思うよね。僕もいまだにちゃんと理解しているとは言い難いけどとりあえず違いとか仕組みとかはこんな感じみたい。よかったら見てみてほしい。

事業から利益をだしていいんだけど、それは株式会社みたいに株主や社員に分配されるというわけじゃなく(もちろん職員の人件費はでます)、次の事業につなげていくために使うってのが基本的なスタンスなのかな。


さて、僕が色々と勉強させて頂いたSVA(シャンティ国際ボランティア会)について。


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ラオスカンボジア、タイ、アフガニスタン等で「図書館」を作ることを主な活動としているそうなんだけど、最初は「図書館をつくってどうなるんだろう?」と僕は思ってしまった。

でも頂いた冊子を読んで、本当に素晴らしい活動だと思った。読みながらちょっと涙ぐんでしまったりもした。

「支援を得て見た目は綺麗になっても、読み書きができなければ、未来の可能性はいつまでも広がらない」

これはカンボジアのある人の言葉なんだけどSVAの方々の活動の意味はこの一言に凝縮されていると思う。

文字が読める、ことは日本だとほんとうに当たり前のことだ。僕にもそれが当たり前すぎて、「読み書きができないことがどれだけ未来の可能性を奪うか」ということに想像力を働かせたこともあまりなかった。

ボランティアや、国際支援のゴールは「現地の人の自立」だとはよく言われる。魚をとってあげるんじゃなくて、捕り方を教えてあげる、とか色んな例えで表現されるけれど(歯科領域でいうなら、Dr.が行って治療してあげる状況を作るのではなく、治療をできる人を育てること)
難民や、貧困に喘ぐ人達が自立するためには、知識を得るために「文字が読める」ということが不可欠なんだ。

未来をいくら夢みても、誰かを心から愛したい、と思っても、それには知識が必要で考える力を育まないとどうにもならない。

人間らしさ、とはそういうことなのかな、とも思う。

難民キャンプから必死で勉強して、外交官になった子。

第三国定住で小さい頃にアメリカに移住し、大学を卒業してからミャンマー難民の問題に取り組む子。

メータオ・クリニックで出会ったジョセフが言っていたように「難民キャンプの大半の若者は頑張って勉強したりしない」のかもしれない。

でもそこに図書館があるから、本が読めて可能性を追えるとしたら、それはどれだけ価値のあることだろうと思う。
(少なくともそう思ってしまうくらいSVAのリーフレットは表現力があった)

よく「ボランティア活動」を批判する声を聞くことがある。

「ボランティアでは何も変えられない」
という言葉を放つ人は、どういう意味をこの言葉にのせているのだろう、と僕は考える。

継続して続かない、結局自己満足で意味のあることを出来ない、色々な意味を含んでいるのだろうし、僕も少しもそう思わないわけではない。

僕はどちらかというと、ソーシャル・ビジネスのような形で社会問題に取り組むに当たってお金の流れを作れたほうが、根本的な問題解決に近づけるのではないかと思っている方である。(問題が何かによるが)


しかし、自分が色々なかたちで「ボランティア」に参加したり、その活動に触れたりする中で、やっぱりボランティアにしか出来ないこともあるんじゃないかと最近は思う。

災害支援、医療支援はもちろんのことだが

難民、どこの国にも属することが出来ない人達の識字教育を、ビジネスとして展開するアイデアは(可能かもしれないが)ちょっと思いうかばない。
例えそれが自己満足と捉えられるものだとしても、1人の人間の人生を変えれるだけでもすごいことだし、

「困ってるんやったら助けたるで」
という、目の前で人がこけたらさっと手を差し伸べるような気持ちから生まれたものを

「ボランティアでは何も変えられない」

と一言で切り捨ててしまうのは、如何なものかと思うし、もう少し色んな方向から見てみてもいいんじゃないと感じる。

もちろん、資金をの出処とか、良くないボランティアのあり方とか、悪いところも、色々あって当然で、本当に良く考えて、ポリシーもって行動しないといけないとは思うけれど。




問題を解決すること

に向かう手段は様々でそれは「何が問題なのか」を捉えることから始まると思う。

自分がすこしでもこの世界が「ええ方向」に向かうためにどんな分野で何ができるのか

どのような手段も捨ててしまうことなく、僕はまだまだ考えていきたい。

少なくとも僕がこの土地で感じる人々の熱意は、本物だと思うから。