踊る髭の冒険

30歳を目前に仕事をやめて旅に出た髭の人が世界中放浪した果てに結局海外大学院留学せずに帰国→家族でベトナム ハノイ移住→その後ドイツで大学院卒業→現在はカンボジアでのらくら。

コスタ・デル・ソル〜4週目

4週目。

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暖かなこの地域も段々と朝晩が寒くなってきた。まったく計画性のない旅程なのだけど、週末にはスウェーデンに飛ぶので寒さは一層増すどころか、一気に極寒の地に向かうことになる。



さて、4週目スペイン語を学ぶ中で考えてたことがある。

なんでそんなに冠詞が重要なのか。
名詞に男性、女性があるというのはいったいどういうことなのか。

1番日本語と違うのはこの部分だと思うのだけど、言語の構造が、その言葉を使う人々の考え方やものの感じ方に影響を及ぼしていたりするものなんだろうか。

この辺りに関して、たまたま読んでいた人類学の本に興味深い部分があったので抜粋しておきたい。
異なった言語の型というものがその言語を使う民族の思考様式やものの感じ方を強く規定してくるにちがいない ─ ─こうした説を提唱したのがアメリカの言語学者サピアであって 、一九三〇年代のことだったが 、つづいておなじく言語学者のウォ ーフも同様の考えを述べたため 、サピア ・ウォ ーフの仮説とよばれるようになった 。実証ができないので仮説という字がついたのだが 、その後 、さまざまな実験によって実証しようという試みがなされている 。たとえばアメリカのニュ ー ・メキシコ州に住むナヴァホ ・インディアンのあいだでは 、 「それを私に渡して下さい 」というときにも 、その渡すべきものが紙や布のように 「曲げやすい 」か 、鉛筆のように 「長くて曲げにくい 」ものかなど 、その形状によって動詞は実に11種類もの違った変化をする 。したがって彼らは事物の形状に特別細かな注意を払うようになっていると考えられる 。そこで 、ナヴァホの子どもを二群に分け 、ひとつは主にナヴァホ語をしゃべる者 、他は主に英語をしゃべる者とし 、それぞれに色をぬった積み木をみせて 、それと似たような積み木をとりあげるよう指示してみた 。ところが英語をしゃべる子どもたちは 、色の似た積み木をとったのに対して 、ナヴァホ語をしゃべる子どもたちは形の似ている積み木を選んだのである 。この例でみると 、たしかに言語が知覚に影響を与えたらしいことは結論できそうに思われる 。しかしアメリカの大都市の保育園にいる白人の子どもについておなじ実験をやってみたところ 、彼らはやはり 、形の似ている積み木を選んだのだった 。これはおそらくは大都市育ちの子どもの場合 、三角や四角の板を並べて形を作るパズルとか 、その他 、事物の形に注意を払わせるような玩具に 、よく接しているからではないかと思われる 。とすると言語は 、知覚に影響を及ぼす多くの要因のなかのひとつにすぎないということになってくる 。
《中略》

しかしこうした点はいずれも推測の域をでておらず 、実証的にどの程度影響を与えているかについては 、なかなかはっきりしない 。こうした事情から 、サピア ・ウォ ーフの説はけっきょく 「仮説 」のままで終ってしまっているのである。


結局、証明することはできず仮説に過ぎないようだけどサピア・ウォーフの仮説は面白い。ていうか、ナバホ族の「渡すものによって動詞が11種類活用する」ってすごいな。

証明できないとはいえ、言葉が人々の考えを規定するのなんて当然の事のように思える。
南米のある部族は「青」と「緑」を区別しないらしくそれは一つの言葉で表されるらしい。そんなことも考えると、新しい言語を学ぶことは、新しい世界の見方を見ることに他ならないなあ。

今回、少しの期間だけでも新しい言語を学ぶ機会を得ることができてよかった。旅にでなければスペイン語を勉強することはなかっただろうから、これもまた一つの旅の収穫かもしれない。



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「だって、全部、欲しいでしょう」

どんな人でありたいと思うか、という僕が聞いたとき、オマーン帰りのMikiさんから出た言葉だった。

「やりたい事をいつでもやれるように生きていたい。」
というようなことを彼女が言って、自分もそうだなあ、と僕がこたえた時に先の言葉が出てきたのである。


こんなにシンプルに僕の心の「真実」を言い表した言葉はないと思う。

そうだ、僕は「全部欲しい」んだ。
すごく単純なことなのに、なんでこんなこと言葉にできなかったんだろう。

やりたいことを列挙してみて眺めると、やっぱり「全部欲しい」。

これは多分僕に限ったことだけでなくてな現代に生きる人たちがそれだけ選択肢を選べる時代に生まれた、という事なんだと思う。

人気ドラマ「あまちゃん」をいまさら見ているのだけどその中で主人公は「やりたい事」がドンドン変わっていく。海女になりたい、潜水土木がやりたい、そしてアイドルになりたい。
でもどれ一つ「捨てる」わけじゃないのだ。ドラマの中でそんな主人公はなんとなく周囲の人達に受け入れられて(それを受け入れる土壌として地元のコミュニティが描かれていることに僕は優しさを感じて、涙ぐんでしまうのだけど)ひとつひとつ自分の道を進んでいく。

そして「全部欲しい」人はきっと全部手に入れる。なぜなら、そういう人達は欲しいものの形にとらわれているわけではないから。「欲しいものは変化していく」そして、全部欲しい。


この感覚にぴったりな言葉を現代を象徴する有名な漫画から選ぶなら、

ハンター✖️ハンターのジンが言う
「俺が欲しいのは今も昔もかわらない。目の前にない何かだ。」であり

ワンピースのルフィの
「この海で1番自由な奴が海賊王だ!」

なんだと思う。


つまり「全部欲しい」は「圧倒的に自由に生きる」ということで。
「全部欲しい」は「ものすごい執着」のようで「圧倒的に自由」。これは矛盾しているようで矛盾していない僕の中の真実になった。

世界は自分でコントロール出来ないと実感していることと「全部欲しい」という感覚は、同時に存在できるものなんだ。


いまの僕がこの感覚を言葉にするとこんな感じになるだろうか。

兎にも角にも僕は、全部欲しい、なんてことが言える幸福な時代と場所に生まれた。その気になれば世界中旅したりできる。少なくとも物理的には不可能なことはなくて、数々の冒険者達が海で命を落とした時代とはわけが違う。

「全部欲しいでしょう」という言葉は僕にとって大切な気づきを与えてくれた言葉になった。

最近はこういう会話の妙味、というのを実感している。会話は誰かと誰かがいないと絶対に出てこない言葉たち。だから誰かと出会って話をすることは、大切なことなんだな。


4週間の勉強を終えて、初心者ながら旅をするくらいのスペイン語はできる(できるかなあ?)ようになった。

それ以上にこのスペインの土地で出会った人達と話して、出てきた言葉、感じたことは何にも変えられない。


最後の日。
いつものようにホストファミリーのお母さんCarmenが大きな声で夫のRicardに小言をいっていた。Ricardはいつものことなのでふんふんと聞いたフリをしていて笑って僕にこう耳打ちをした。

「Never marry.(結婚なんか、するもんじゃないぞ)」。

いつも優しいRicardからの最後の助言に僕は苦笑した。それでもいい夫婦なんだから凄いよなあ。この家で住まわせて貰えて良かったと思う。



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Anriちゃんと、ネット上で絵本の販売をされている日本人女性のMikaさんと最後の晩餐。みんなそれぞれの道があって、先なんか見えないけど一歩一歩歩いてる。スペインのタパスが食べれなくなるのが1番さみしいなー。



さて、明日からはスウェーデンに一週間。そのあとにモロッコに行くんだからもっと計画的に動けよ!という感じなのだが…

ストックホルムに会いたい人がいる。
その人は昔、僕と昔、上空4000mを旅した友人。


始めての北欧は僕にどんなことを感じさせてくれるだろう。
北の大地の寒さに耐えれますように。