踊る髭の冒険

30歳を目前に仕事をやめて旅に出た髭の人が世界中放浪した果てに結局海外大学院留学せずに帰国→家族でベトナム ハノイ移住→その後ドイツで大学院卒業→現在はカンボジアでのらくら。

踊る髭、体調を崩す。

4月16日。

朝起きて9時半のボートにのってムアンゴイを後にした。スムーズにノンキャオでもバスに乗れたが2日続けての悪路を4時間はかなりきつかった。頭がフラフラしてた。

ルアンプラバンについたら今日がピーマイラオ(新年の水かけ祭り)の最後の日だとかで容赦無く水をかけられまくった。

写真を撮る気力もなくされるがまま水をかけられて「ほんともういいよ」と心の中では切れそうだった。

他の国の新年のお祝いに物見遊山できてイラついてるなんて、旅行者の風上にもおけない奴だ!と僕は自分で思った。

もう日本みたいに静かに正月を祝えと。
三ヶ日まるまる水かけて過ごすなと。

最終日のルアンプラバンのテンションはほんとにやばかった。街中を色付きの水を撒き散らすトラックが走り回り、その上にのった子供たちが放水するわ、太鼓叩きまくるわ。

ぶっちゃけもう町にでるのが怖かった。水に濡れずにいれる場所なんてこの町にはどこにもない。そしてもうほんと嫌になるくらいかけられる。

なんとか宿に着いてビショビショの荷物を降ろした。シャワーを浴びてパタンとねた。

夕方おきて祭りの最後に向かうテンションを脇目になんとか安全にご飯にありつきすぐに宿にかえる。


その時、急に背中がいたくなるのを感じた。だんだんと両腕と背中の骨格筋が痛くなってきた。

夜に向かうにつれて熱が上がってくるのを僕は感じた。身体が痛くて早く動けない。下痢がひどい。

食あたりだろうか。
一晩眠れば回復するか、と僕は眠った。


4月17日

朝。
熱っぽい。寝てる間に頭をよぎったのは「もしかするとデング熱かもしれない」ということだ。

ビエンチャンで持田さんが地方ではまだまだマラリアデング熱も流行ってるから気をつけてね、と言ってたのを思い出した。

そういやバンビエンでもムアンゴイでも蚊に刺された。調子こいて短パンで動いていたのがいけなかったか。

昔大学の講義で聞いたのか、医療人類学の本でみたのか、確かデング熱の初期症状は骨格筋の痛みだったような気がする。喉に症状がないので風邪やインフルエンザではないだろう。

日本にいて病気になることはほとんどない健康体だったので僕はかなり辛く感じた。
仕事だとか勉強だとか何かやることがあれば、気合でそっちにむかって、そのうちに症状が治っていくのがいつものパターンだが、やることがないというのが裏目にでて、僕は小学校ぶりくらいに病気の症状と面と向き合わなければならなかった。

ネットでデング熱を検索する。
初期症状としては当てはまっている。
頭痛はない。が、もしかするとこれから出てくるのかもしれない。

日本人の旅行者のデング出血熱に罹ったブログを見て恐ろしくなって、僕はルアンプラバンで病院にいくべきか悩んだ。

ラオスの医療レベルは良くはない。重症だと隣国のタイまで輸送されるのが通常のようだ。

頭が痛くなってきたような気がしてきて、暗い安宿のベッドが怖くなった。

病院にいこう。どれくらい信頼できるかわからないが、とりあえず「診断」してほしい。

医療人の仕事は本当に、「診断」することで病と向き合う患者に「解釈」を与えてあげることだと僕は思ってる、ってほんとにもうそんなことどうでもいいくらい不安になった。

とりあえず保険を使おうと保険会社に連絡をするため電話をかけたいと宿のお兄さんにいう。

「ごめんなさい、ここからは国際電話はかけられないんだ」

ラオスミャンマーの方はタイ支部にかけてねと書いてあり、もうにっちもさっちもである。

この宿を予約したときに対応してくれたSomphongという男のがかなり英語が上手だったので話してみる。彼はいつも微笑んでいて、見るだけで優しい気持ちになれる。

「電話をかけたい。フリーコールなんだ、携帯を貸してくれないかな?」
彼はいいよ、と携帯を貸してくれた。

だが繋がらない。どうやらラオスの携帯電話は定額ではなくSIMカードにチャージするのが一般的で、彼の電話もそれが切れていて使えない。

僕のI phoneはSIMfreeじゃなかったはずだ。これは、今後色々とまずい気がする。どこかでSIM freeの端末を手に入れたほうがよさそうだ。

今はそんな気力も時間もない。

保険の案内には先に電話をかければしかるべき病院と医師を紹介してくれると書いてあったが、かなわないとなると自分でいって、レシートをもらって後で保険会社に請求することになる。

クレジットカード使えるやろか。もし使われへんかったら現金おろしていかな。

ピーマイラオを終えたこの日のルアンプラバンはかなり暑く、立っているのも辛かった。

「とりあえず、熱をはからせてくれないかな?」
体温計も持ってきていない。僕は自分の健康を過信していた。どこかで自分が体調を崩すわけないと思っていたのだ。

わかった。ちょっとまってね。

とSomphongは宿の奥へ行った。
しばらくして彼は僕を呼んでくれた、そこには大柄の女の人がいた。優しいが、強い目をしていた。

彼女は体温計で僕の体温を測り、どこからともなく血圧計を取り出した。

「私はDr.なのよ。いつもはオペ室だけ入ってるけど」

神様、と僕は思った。

Somphongの姉であり、この宿のオーナーであ

4月16日。

朝起きて9時半のボートにのってムアンゴイを後にした。スムーズにノンキャオでもバスに乗れたが2日続けての悪路を4時間はかなりきつかった。頭がフラフラしてた。

ルアンプラバンについたら今日がピーマイラオ(新年の水かけ祭り)の最後の日だとかで容赦無く水をかけられまくった。

写真を撮る気力もなくされるがまま水をかけられて「ほんともういいよ」と心の中では切れそうだった。

他の国の新年のお祝いに物見遊山できてイラついてるなんて、旅行者の風上にもおけない奴だ!と僕は自分で思った。

もう日本みたいに静かに正月を祝えと。
三ヶ日まるまる水かけて過ごすなと。

最終日のルアンプラバンのテンションはほんとにやばかった。街中を色付きの水を撒き散らすトラックが走り回り、その上にのった子供たちが放水するわ、太鼓叩きまくるわ。

ぶっちゃけもう町にでるのが怖かった。水に濡れずにいれる場所なんてこの町にはどこにもない。そしてもうほんと嫌になるくらいかけられる。

なんとか宿に着いてビショビショの荷物を降ろした。シャワーを浴びてパタンとねた。

夕方おきて祭りの最後に向かうテンションを脇目になんとか安全にご飯にありつきすぐに宿にかえる。


その時、急に背中がいたくなるのを感じた。だんだんと両腕と背中の骨格筋が痛くなってきた。

夜に向かうにつれて熱が上がってくるのを僕は感じた。身体が痛くて早く動けない。下痢がひどい。

食あたりだろうか。
一晩眠れば回復するか、と僕は眠った。


4月17日

朝。
熱っぽい。寝てる間に頭をよぎったのは「もしかするとデング熱かもしれない」ということだ。

ビエンチャンで持田さんが地方ではまだまだマラリアデング熱も流行ってるから気をつけてね、と言ってたのを思い出した。

そういやバンビエンでもムアンゴイでも蚊に刺された。調子こいて短パンで動いていたのがいけなかったか。

昔大学の講義で聞いたのか、医療人類学の本でみたのか、確かデング熱の初期症状は骨格筋の痛みだったような気がする。喉に症状がないので風邪やインフルエンザではないだろう。

日本にいて病気になることはほとんどない健康体だったので僕はかなり辛く感じた。
仕事だとか勉強だとか何かやることがあれば、気合でそっちにむかって、そのうちに症状が治っていくのがいつものパターンだが、やることがないというのが裏目にでて、僕は小学校ぶりくらいに病気の症状と面と向き合わなければならなかった。

ネットでデング熱を検索する。
初期症状としては当てはまっている。
頭痛はない。が、もしかするとこれから出てくるのかもしれない。

日本人の旅行者のデング出血熱に罹ったブログを見て恐ろしくなって、僕はルアンプラバンで病院にいくべきか悩んだ。

ラオスの医療レベルは良くはない。重症だと隣国のタイまで輸送されるのが通常のようだ。

頭が痛くなってきたような気がしてきて、暗い安宿のベッドが怖くなった。

病院にいこう。どれくらい信頼できるかわからないが、とりあえず「診断」してほしい。

医療人の仕事は本当に、「診断」することで病と向き合う患者に「解釈」を与えてあげることだと僕は思ってる、ってほんとにもうそんなことどうでもいいくらい不安になった。

とりあえず保険を使おうと保険会社に連絡をするため電話をかけたいと宿のお兄さんにいう。

「ごめんなさい、ここからは国際電話はかけられないんだ」

ラオスミャンマーの方はタイ支部にかけてねと書いてあり、もうにっちもさっちもである。

この宿を予約したときに対応してくれたSomphongという男のがかなり英語が上手だったので話してみる。彼はいつも微笑んでいて、見るだけで優しい気持ちになれる。

「電話をかけたい。フリーコールなんだ、携帯を貸してくれないかな?」
彼はいいよ、と携帯を貸してくれた。

だが繋がらない。どうやらラオスの携帯電話は定額ではなくSIMカードにチャージするのが一般的で、彼の電話もそれが切れていて使えない。

僕のI phoneはSIMfreeじゃなかったはずだ。これは、今後色々とまずい気がする。どこかでSIM freeの端末を手に入れたほうがよさそうだ。

今はそんな気力も時間もない。

保険の案内には先に電話をかければしかるべき病院と医師を紹介してくれると書いてあったが、かなわないとなると自分でいって、レシートをもらって後で保険会社に請求することになる。

クレジットカード使えるやろか。もし使われへんかったら現金おろしていかな。

ピーマイラオを終えたこの日のルアンプラバンはかなり暑く、立っているのも辛かった。

「とりあえず、熱をはからせてくれないかな?」
体温計も持ってきていない。僕は自分の健康を過信していた。どこかで自分が体調を崩すわけないと思っていたのだ。

わかった。ちょっとまってね。

とSomphongは宿の奥へ行った。
しばらくして彼は僕を呼んでくれた、そこには大柄の女の人がいた。優しいが、強い目をしていた。

彼女は体温計で僕の体温を測り、どこからともなく血圧計を取り出した。

「私はDr.なのよ。いつもはオペ室だけ入ってるけど」

神様、と僕は思った。

Somphongの姉であり、この宿のオーナーである彼女は医師で血圧と体温をみて

「問題ない。この薬を1日三回飲みなさい。この薬はあげるから」

と僕に薬をくれた。タイ製の解熱剤のようだった。解熱剤は僕ももっていたが、もしもデング熱とかだった場合ロキソニン等は出血傾向を起こすことがあるとかで良くないとwebでみて飲まないでいたのだ。

デング熱とかじゃない?」
と僕が聞くと、大丈夫、たぶん疲れてるのよと彼女は答えた。いっぱい水分をとって、フルーツを食べて、薬をのんで寝なさい、と。

どこまでこの診断が信頼できるかはわかる術もないが、僕は彼女を信じることにした。大丈夫、といってくれるだけでどれだけ心が楽になったことか。

血圧や、体温を計るのは客観的な指標として患者を安心させるというのも身にしみて感じた。計ることができなければそれは、なんの根拠もない感覚そのものなのだ。西洋医学が存在せず、病が数値化できない社会では、病は精神と直結する。これは当たり前のように体温計がある、菌を特定できたり遺伝子を特定できたりする社会で生きていて実感したことのないことだった。
本当にいい勉強になった。


神様ありがとう。
僕はもらった解熱剤を飲んで眠った。


明日の飛行機でバンコク経由でフィリピンに入り、バギオという町の英語の学校に向かうことになっているが、フィリピンに向かえる気はしなかった。

バギオまではマニラからバスで6時間。
いまのコンディションだとかなりキツイ。昨日の悪路を思い出すだけでかなりきつかった。

無理だ。
僕はフィリピンの語学学校に入学延期の願いをメールした。とりあえず明日には行けないことを伝えてしばらく療養する必要があると書いた。

僕は旅することをなめていた。
痛感していた。
僕はそんなに強くない。

薬や他のもので必要なものを揃えたり、もって来すぎたいらないものを捨てたり、体力を戻したり、遊び惚けて下がりっぱなしの英語力も戻さなければ。

もう何日かラオスにいるべきか悩んだが、ラオスにいても環境を改善するのが難しい。食べるものも限られているし、完全に体調を戻すには1度衛生面で問題のない国にいくことが必要だと感じた。
ラオスの人々は清潔だ。トイレもかなり綺麗だし、安宿も綺麗。でもいまの僕にはそのラインがちょっときつい。

僕の航空券はバンコク経由なので、とりあえずタイにいくことにした。
タイは先進国だ。おそらくかなり環境はいいだろう。

そこでしばらく療養して、力を戻してフィリピンへ。もう1度体制を立て直そう。バンコク→マニラ行きの航空券はもったいないが仕方がない。

もらった解熱剤のお陰か熱と筋肉の痛みは夜には消えた。

お腹の調子はすこぶる悪くいまだに便が水のようだがこれならなんとか動けそうだ。正露丸飲んでるけど効かない。

ネットでバンコクの宿を予約した。
口コミはかなりいいけどゆっくり過ごせる場所だったらいいな。

予定変更、明日タイヘ入国。
とりあえず4月いっぱいはタイの予定。

バンコク、剣道できるかなー。
運動したい。

る彼女は医師で血圧と体温をみて

「問題ない。この薬を1日三回飲みなさい。この薬はあげるから」

と僕に薬をくれた。タイ製の解熱剤のようだった。解熱剤は僕ももっていたが、もしもデング熱とかだった場合ロキソニン等は出血傾向を起こすことがあるとかで良くないとwebでみて飲まないでいたのだ。

デング熱とかじゃない?」
と僕が聞くと、大丈夫、たぶん疲れてるのよと彼女は答えた。いっぱい水分をとって、フルーツを食べて、薬をのんで寝なさい、と。

どこまでこの診断が信頼できるかはわかる術もないが、僕は彼女を信じることにした。大丈夫、といってくれるだけでどれだけ心が楽になったことか。

血圧や、体温を計るのは客観的な指標として患者を安心させるというのも身にしみて感じた。計ることができなければそれは、なんの根拠もない感覚そのものなのだ。西洋医学が存在せず、病が数値化できない社会では、病は精神と直結する。これは当たり前のように体温計がある、菌を特定できたり遺伝子を特定できたりする社会で生きていて実感したことのないことだった。
本当にいい勉強になった。


神様ありがとう。
僕はもらった解熱剤を飲んで眠った。


明日の飛行機でバンコク経由でフィリピンに入り、バギオという町の英語の学校に向かうことになっているが、フィリピンに向かえる気はしなかった。

バギオまではマニラからバスで6時間。
いまのコンディションだとかなりキツイ。昨日の悪路を思い出すだけでかなりきつかった。

無理だ。
僕はフィリピンの語学学校に入学延期の願いをメールした。とりあえず明日には行けないことを伝えてしばらく療養する必要があると書いた。

僕は旅することをなめていた。
痛感していた。
僕はそんなに強くない。

薬や他のもので必要なものを揃えたり、もって来すぎたいらないものを捨てたり、体力を戻したり、遊び惚けて下がりっぱなしの英語力も戻さなければ。

もう何日かラオスにいるべきか悩んだが、ラオスにいても環境を改善するのが難しい。食べるものも限られているし、完全に体調を戻すには1度衛生面で問題のない国にいくことが必要だと感じた。
ラオスの人々は清潔だ。トイレもかなり綺麗だし、安宿も綺麗。でもいまの僕にはそのラインがちょっときつい。

僕の航空券はバンコク経由なので、とりあえずタイにいくことにした。
タイは先進国だ。おそらくかなり環境はいいだろう。

 

そこでしばらく療養して、力を戻してフィリピンへ。もう1度体制を立て直そう。バンコク→マニラ行きの航空券はもったいないが仕方がない。

もらった解熱剤のお陰か熱と筋肉の痛みは夜には消えた。

お腹の調子はすこぶる悪くいまだに便が水のようだがこれならなんとか動けそうだ。正露丸飲んでるけど効かない。

ネットでバンコクの宿を予約した。
口コミはかなりいいけどゆっくり過ごせる場所だったらいいな。

予定変更、明日タイヘ入国。
とりあえず4月いっぱいはタイの予定。

バンコク、剣道できるかなー。
運動したい。