踊る髭の冒険

30歳を目前に仕事をやめて旅に出た髭の人が世界中放浪した果てに結局海外大学院留学せずに帰国→家族でベトナム ハノイ移住→その後ドイツで大学院卒業→現在はカンボジアでのらくら。

メータオ・クリニック②

4月28日

夜、ごはんを食べてから阿部先生と話した時のことを覚え書きしておく。

纏まりがない文章になるかもしれないが、どれだけ時間がかかっても、自分が忘れたくないことを書き残しておきたい。


もしラオスでお腹を壊さなければ来なかったかもしれないタイで、僕は貴重な体験をさせてもらっている。

それも幸運なことに、たまたま日本人の先生がされている団体に辿り着き、年に4回こちらに来られている阿部先生がくるタイミングと同時期にたまたま僕の滞在が重なり、この上ないくらい色々な情報を頂いて、物事を考える機会を与えてもらった。


「頭でっかちな医療バカになってほしくないのよ、僕は。若い人たちには特にね、患者の背景を知って医療を行って欲しい。だから僕は病院だけでなくSVAや、孤児院にも皆を連れていくんです」

阿部先生はそういった。

先生がBorderless dentistの活動を始められたのは2年ほど前、きっかけは日本のテレビ番組で見たメータオ・クリニック、そしてミャンマー難民の医療事情だったらしい。

「Dr.シンシア、メータオの創設者ね。彼女の目が気に入った。若い人の言葉でいうとさ、『マジだな』って思った」

その後単独でメータオに連絡をとるも断られた先生は、なんと単身ノーアポでメータオクリニックに乗り込み「自分にできることはないか」と働きかけたそうだ。

熱意が人を動かしてゆき先生はメータオ・クリニックの中で信頼を得ていった。歯科のスタッフへの教育にも熱心に取り組んでおられるそうだ。

メータオ・クリニックのスタッフは日本でいうところの「ライセンス」をもつDrばかりではない。

ミャンマーから、もしくは難民キャンプからメータオ・クリニックにやってきてここで独自に医療技術を身につけたスタッフをここでは「メディック」とよんでおり、歯科のスタッフは殆どがメディックで構成されている。

彼らにとってはこれは給与をもらえる仕事なのだ。もちろんちゃんとライセンスをもっているDrとは給与の差はあるが。

「メータオ・クリニックは一時期は900人のスタッフを抱えていた。」

なかなかそれだけのスタッフを維持するのは難しくいまはかなり減ってしまっているそうだ。


阿部先生のBorderless dentistは、難民キャンプの中で病院を運営するフランスのPU-AMIや、ドイツのMIといったNGOともコラボレーションして、難民キャンプ内での活動も行なっている。

「色々な形でこの問題に関わっている人がいるけれども、先生も世界中でこれからボランティアを続けるなら、個人で動いているひとたちと、大きなNGOなんかの組織と、区別して見る目を持ったほうがいいかもしれない」

阿部先生はそういった。

これは僕の理解で、阿部先生が仰られたのはもっと深い意味があるのかもしれないが、大きな組織になればなるほど、人件費もかかり維持すること自体が大変になる。先生は、難民キャンプのゴミ山でその環境を改善するのに1人で取り組み、成果を出したあるイギリス人との話を聞かせてくれた。

「僕が彼に会うたび彼は僕にCBOだ!CBOだ!っていうんだよ。彼はNGOみたいな大きな組織が問題に取り組むという形をあまりよく思ってなかった。大規模にやる必要なんてあるか?

Community based organization、もっとその土地のコミュニティに根付いた活動をしないと!ってね」

このCBOという概念に関しては僕がもう少し勉強が必要だと思うのだが確かにそれぞれの土地に様々な特集な環境が存在するため、小さな団体がそれぞれの土地の問題、難民キャンプ、離島、腐敗した政府の下での医療政策の立案、など、個々に取り組むのが理想的かもしれない。

団体が増えればその分対立も増えるのではないかという懸念もあるが。



さて、難民キャンプというのが、どうやらぼくの想像を遥かに超える規模のものらしい。

「現在タイには全部で9つのミャンマーの難民キャンプがある。なかでも最大なのがメラ・キャンプ。ここには5万人の人々が暮らしている」

5万人って、町じゃないですか。

小豆島より人口おおいぜ!と後で友達に言われた。

そう、メラは実際、「シティー」と呼ばれているらしい。


25年以上に渡る難民キャンプの生活の中でそこには「町」が形成され、そのなかで新しい世代が産まれ育っている。

ミャンマー難民の原因を遡れば、どのあたりからになるのか専門家でない僕には詳しくはわからないが僕なりにwebで得た知識をまとめてみたい。

まずミャンマーには数多くの民族が住んでいる。現在は7つの州に別れていてそれぞれの州にそれぞれの民族がくらしているようだ。(細かくわけるとものすごい数の少数民族があるようだが)

例えば、メータオ・クリニックで働いているのはカレン族の人が多い。シャン族や他の人たちもいるが、民族間でも微妙なパワーバランスがあるようである。

元を辿れば19世紀初頭にイギリスにビルマは浸食されて上ビルマと下ビルマに別れた。

ビルマは英国の支配下になり、その後上ビルマを併合。ビルマは一旦英領インドの一州になる。

この併合後に統治政策として英国が行ったことが、いまでも民族間の対立に影響を与えているようだ。

英国はもともと多数派だったビルマ族を社会の中で下位に引き下げ、少数民族であったカレン族官吏や武装警察に起用した。

こうしてヒエラルキーを逆転させることで対立構造を醸成させたそうだ。

この歴史はwikipedia調べでぶっちゃけ僕にはよくわからないのでもっと本を読んだりする必要があるが(正確な情報が欲しい方は自分で調べでください。いまの僕の理解を書いてるだけなので責任持ちません。ごめんね)

とりあえずその後もいろんな歴史の中で色んな争いごとが起こって少しずつ色んな民族が難民化していった。

で、ビルマは長い間軍事政権が権力を握っていて今でもそうなんだけど、1988年?(これは資料により様々)ごろの民主化運動に対する軍事政権の弾圧が特にものすごくて、この時に追いやられて難民としてタイに逃れてきた人たちが、15万人(いまは11万人くらい?)いまでも難民キャンプで生活している。

2007年ころから難民の人の北米やオーストラリアとか、他の国への移住も(日本も2010年に移民を受け入れると発表しているらしいが詳細はわからない)

カレン族やシャン族はビルマの国軍と対立して反政府運動を行なっていて多くの戦死者がでているようだ。


「差別、ディスクリミネイションについて色々考えてしまうよね。すごくナチュラルに起こってしまうものなのかなと」 


僕も、日本では「差別」を受けてきた家系の生まれなので、差別の問題についてはいつか真剣に取り組まなくてはと思っている。が、いまはまだ、戦える何ももっていない。「ナチュラルにおこる」他人との差異を感じる感情、が差別の根本であるのか。つまりそれは、生理的親和感を感じる感じないということなのか。教育によりそれは乗り越えられるのか。僕にはわからない。


「ボランティアってものを若い人たちによく考えてもらいたい。どんな金でもいいのか、どんな方法でもいいのか。」

「ポリシーってもんが大切だよ」

阿部先生は言う。


いまの僕にできるのは僕自身がだれにでも分け隔てなく、自然に、優しく、接するように努力することだけだ。

ボランティア、というかたちで土地に生きる人たちの「声」に触れることができる。それが僕のやりたかったこと。

世界には、人々の普通の生活しかないから。

明日から、メータオ・クリニックで働く、そこを訪れる人たちの声に耳を傾けたいと思う。


阿部先生、そしてオーストラリアからのDr2人とはこの日でお別れ。

明日からは1人、メータオ・クリニックに勤務だ。